怒りはコントロールできるのか?~アドラー心理学の「目的論」の立場から~

ちょっとしたことでイラッとしてしまう自分

年齢を重ねるにつれて、怒りの沸点はだいぶ低くなってきたと感じているが、まだまだちょっとしたことでイラッとすることが日常的に、特に仕事中にはよくある。

最近は新型コロナウイルス感染拡大の影響で在宅勤務となり、上司や同僚、部下とのコミュニケーションにチャットやメールを使うことが多くなった。

チャットやメールは在宅勤務等のリモートワークには必要不可欠なツールだが、対面でのコミュニケーションに比べてどうしても細かいニュアンスが伝わりにくく、ちょっとした言葉の選び方で相手に誤ったニュアンスで伝わってしまうものだ。

送った本人はそんなつもりはないと思うのだが、言葉の選び方ひとつで「冷たいな」とか「怒ってるのかな?」とか、無用な疑心暗鬼に陥ってしまうことは多くの人が経験しているのではないか。

原因論と目的論

少し脱線したが、言葉の掛け違いでイラッとして、そしてそんなちっぽけなことでイラッとしている自分の器の小ささに対してまたイラッとするという、負のスパイラルに陥ってしまったとき、アドラー心理学における「目的論」の話を思い出す。

例えば上司からのチャットで何らかの不快な感情が沸き上がった時、なぜ今自分が不快な感情を抱いたのだろう?と考えてみる。

  • やりたくない仕事を依頼されたから?
  • チャットの言い回しがぶっきらぼうだったから?
  • 指示なのか只の感想なのか判然としない書き方で、趣旨がわからないから?

このように、不快な感情を抱いた原因にフォーカスする考えは、「原因論」と呼ばれる。フロイトやユングが立脚する考え方だ。私も何も考えなければ自然とこのような考え方に行きつく。

だが、アドラー心理学ではこれとは異なる考え方をする。すなわち、不快な感情が芽生えたのは、自分にとってそれが必要だからであって、なんらかの目的を達成するために不快な感情を自ら持ち出したのだ、と考える。原因論に対して「目的論」と呼ばれる考え方だ。

目的論に立てば怒りの感情は「不要」になる(…だが難しい)

岸見先生の『嫌われる勇気』を幾度となく読み返しているが、「目的論」に立脚した考え方がなかなかうまくできない。

「課題の分離」「ライフスタイル」等の概念は割としっくりきたが、目的論だけはどうにも実践が難しいと感じている。

自分が日頃感じる怒りや不快感にも何らかの目的があり、それがわかってくると自分がどのような「ライフスタイル」に基づいて生きているのかがわかり、その「ライフスタイル」を変えることで怒りや不快感が不要となり表出しなくなる・・・おそらくこうした流れになるのだろうと頭では理解しているが、ではどんな目的があって自分はこのような怒りや不快感を必要としているのだろう?という最初のところがどうしてもわからず、ついつい先ほど述べた原因論に立脚した考え方が頭をよぎってしまうのである。

目下、「目的論」を肌感覚のレベルで理解し、日常生活で実践していくことが課題となっているが、とても難しい…

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